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建物語

アウトプットの練習

建築で喩えること

建築関係以外の読書をしているとき、建築で何かを喩える表現に思いがけず出くわすことがある。それらに対して、僕はうんうんと頷いたり、その比喩は適切か?とか思ったりするのだけれど、とにかく、建築に関する知識が比喩として一般に機能していた時代なり文化なりがあったということに少し関心したりする。

というのも、最近の日本では、建築についての知識は身近なものではなくなってしまっているのではないかと思うからだ。僕たちの生活のほとんどは建築(ここでは建物とした方が正確だろうが)の中で行われているのだから、この実感が本当ならば少し不自然な状態ではないだろうか。藤森照信さんは「家誉め」を、塚本由晴さんは「相場崩し」を引き合いに出してお話するのを何度か見たことがあるけれど、かつて日本に存在した、そうした家にまつわる文化が復権するというのは、想像しにくいことはまあ確かかなと思う。

とにかく、時々そうした比喩で気になるものがあったら、引用してつらつらと何か書いてみたいと思う。以下にそれぞれの比喩が続きます(とりあえず今は引用のみ)。

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ユクスキュル『生物から見た世界』を読んだ

21世紀は「環境の世紀」であると言われている。建築の世界においても、今までの構造と意匠の関係のように、環境について考えることで新たな建築を生み出そうとする試みが数多く行われている。

温熱環境や音環境、環境はそれぞれ分化されて、気温や湿度、残響時間など定量的な指数をもって計られる。けれど、暑い日に窓を開けて風が吹いてきたときの刹那的な気持ちよさ、定性的な環境についてはどう考えればいいのだろう。

ユクスキュルは生物の生態を研究するにあたって、客体にとっての「環境」に対して、主体にとっての、主体ごとの「環世界」を考える。だから私たち人間が「環境」と読んでいるものは、実は人間特有のフィルターを通した「環世界」でもある。本書には「環境」や「環世界」をどう見ればいいか、そのヒントが溢れている。

以下覚書

 

人間の知覚スケール

一章「環世界の諸空間」では、私たちが知覚したものをどのように空間的に関連付けて理解しているか、その形式が述べられている。またそれらは時間的にも結びついて理解される。空間と時間は、イマヌエル・カントが人間の先験的に持つ形式として指摘したものだ。

「主体とその環境の客体とのあいだの関係がどのようなものであろうとも、その関係はつねに主体の外に生じるので、われわれはまさにそこで知覚標識を探さねばならない。主体の外にあるこれら知覚標識どうしはそれゆえつねになんらかの形で空間的に結びついており、そしてまた一定の順序で交代していくので、時間的にも結びついている。」(p.28)

ユクスキュルによれば、それは作用空間・触空間・視空間である。作用空間は、自らの運動の方向や大きさの認識を可能にしているものだ。触空間は、私たちが触って認識できる場所・領域の大きさ(モザイク)に関係している。視空間では、眼の網膜にある基本領域、視覚エレメントの大きさや配置が強く影響する。これら3つの空間の在り方は生物種によって異なるものだ。

 

建築においてはスケールという考え方がある。その代表的なものにヒューマン・スケールがあり、人間の身体を尺度に建築の寸法を考えることだ。例えばル・コルビュジエは自らの身長から、モデュロールと呼ばれる寸法体系を開発し、設計に応用した。

けれど、私たちは体格の異なる欧米人の設計した建物においてもそのスケール感の心地よさを感じることができる。その感覚の背景には、人間という種固有の知覚の形式、それに基づくスケールが存在するとは考えられないだろうか。

 

知覚と行為の相互作用

ジェームズ・ギブソンアフォーダンスという考え方がある。人間が行為の可能性を発見できる状態・能力のことだ。これは機能という考え方とは異なる。椅子の機能は座ることだ。でも、場合によっては高いところに手を伸ばすために、椅子の上に立っても良い。回りに手頃なものが椅子しかなかったら、きっとそうするだろう。だから椅子は座ること以外にも様々な行為をアフォードする。機能より柔軟なこの考え方は、人間の実情により知覚感じられるが、デザインに応用するとなると難しい。新たなアフォーダンスを私たちは生み出すことができるのだろうか。

七章「知覚像と作用像」において、アフォーダンスと類似するような考え方が提出される。物事は行為に関連付けて認識されるという指摘だ。

「われわれは自分の環世界の対象物でおこなうあらゆる行為について作用像を築きあげており、それを感覚器官から生じる知覚像と不可避的にしっかり結びつけるので、その対象物はその意味をわれわれに知らせる新たな特性を獲得する。」(p.92)

 

篠原一男設計の上原通りの住宅で、 特徴的な柱と床から45°に突き出る方杖にポスターの貼られた写真を見たことがある。施主の話によれば子供たちが、柱と方杖の間に寝そべったりしていたという。

「知覚像と作用像」の考え方を借りれば、最初は邪魔に思えた柱と方杖がポスターを貼ることができる、間に寝そべることができるという可能性によって新しい意味を獲得したと考えることができる。

2Gの篠原一男特集号の写真を見ると、生きられた篠原の住宅、篠原の強い表現と生活のダイナミックな関係に感動する。建築の表現と生き生きとした生活は必ずしも矛盾しない。「知覚像と作用像」にそれを成立させるヒントがある気がしている。

 

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

 

 

堀田純司『僕とツンデレとハイデガー』を読んだ

奥山先生や坂本先生のお話を聴いたり、読んだりしていて、ハイデガーバシュラールの哲学に少し興味を持っていた。また最近、クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ『実存・空間・建築』を読んで、実存主義哲学に興味を持った。シュルツは幾人かの哲学者を挙げていたが、特にハイデガーについては「基礎的かつ先駆的業績であって、とくに重要である。」と述べている。

そんなところに、生協で本をざっと眺めていたら、この本が目に入った。今まで哲学の入門 には失敗してきたが、いかにもライトそうなタイトルにつられて購入した。以下感想。

物語構造としてのライトノベル

本書のタイトルは非常にライトノベル的だ。最初は哲学をネタにしたライトノベルかと思ったが、読んでみるとライトノベルを物語の構造とした哲学入門書だった。ライトノベルとしては設定は非常にテンプレで目新しいことはない。物語の舞台は異世界の学校で、そこで主人公は、哲学者の顕現である美少女たちに会い、順番に教えを受けていく。

しかし、そのテンプレがそれぞれの哲学者を差別化し、非常にわかりやすい。それぞれの哲学の内容とキャラクター性が結びついて記憶に残る。デカルトツンデレでフェンシングやってて、パンツ見ちゃった娘ね、みたいな感じで。危ない。

 

そして、構成も明快だ。本書で主に取り上げられる哲学者はデカルトスピノザ、バークリ、ヒューム、カント、ヘーゲルニーチェハイデガーの8人だ。各章では基本的に、1人の哲学者が取り上げられる(3章では、バークリとヒュームが同時に取り上げられる)。そして前章の内容を踏まえながら徐々に話が展開していく。つまりは「近代哲学の父」であるデカルトからハイデガーに向かう物語になっている。章末には謎の少女、三重野由真が現れて、その章のまとめと次章の予告をしていく。とにかく丁寧だ。

 

それぞれの内容については、これから原著を読んでいけば適切かどうかわかるのだろう。とりあえずハイデガーまでの哲学の流れをおおまかに押さえられたので満足だ。強いて言えば巻末に引用文献だけでなくブックリストなんかが付いてると嬉しかったかな。

 

カントが一番好みだった。

 

 

実存・空間・建築 (SD選書 78)

実存・空間・建築 (SD選書 78)