建物語

アウトプットの練習

ユクスキュル『生物から見た世界』を読んだ

21世紀は「環境の世紀」であると言われている。建築の世界においても、今までの構造と意匠の関係のように、環境について考えることで新たな建築を生み出そうとする試みが数多く行われている。

温熱環境や音環境、環境はそれぞれ分化されて、気温や湿度、残響時間など定量的な指数をもって計られる。けれど、暑い日に窓を開けて風が吹いてきたときの刹那的な気持ちよさ、定性的な環境についてはどう考えればいいのだろう。

ユクスキュルは生物の生態を研究するにあたって、客体にとっての「環境」に対して、主体にとっての、主体ごとの「環世界」を考える。だから私たち人間が「環境」と読んでいるものは、実は人間特有のフィルターを通した「環世界」でもある。本書には「環境」や「環世界」をどう見ればいいか、そのヒントが溢れている。

以下覚書

 

人間の知覚スケール

一章「環世界の諸空間」では、私たちが知覚したものをどのように空間的に関連付けて理解しているか、その形式が述べられている。またそれらは時間的にも結びついて理解される。空間と時間は、イマヌエル・カントが人間の先験的に持つ形式として指摘したものだ。

「主体とその環境の客体とのあいだの関係がどのようなものであろうとも、その関係はつねに主体の外に生じるので、われわれはまさにそこで知覚標識を探さねばならない。主体の外にあるこれら知覚標識どうしはそれゆえつねになんらかの形で空間的に結びついており、そしてまた一定の順序で交代していくので、時間的にも結びついている。」(p.28)

ユクスキュルによれば、それは作用空間・触空間・視空間である。作用空間は、自らの運動の方向や大きさの認識を可能にしているものだ。触空間は、私たちが触って認識できる場所・領域の大きさ(モザイク)に関係している。視空間では、眼の網膜にある基本領域、視覚エレメントの大きさや配置が強く影響する。これら3つの空間の在り方は生物種によって異なるものだ。

 

建築においてはスケールという考え方がある。その代表的なものにヒューマン・スケールがあり、人間の身体を尺度に建築の寸法を考えることだ。例えばル・コルビュジエは自らの身長から、モデュロールと呼ばれる寸法体系を開発し、設計に応用した。

けれど、私たちは体格の異なる欧米人の設計した建物においてもそのスケール感の心地よさを感じることができる。その感覚の背景には、人間という種固有の知覚の形式、それに基づくスケールが存在するとは考えられないだろうか。

 

知覚と行為の相互作用

ジェームズ・ギブソンアフォーダンスという考え方がある。人間が行為の可能性を発見できる状態・能力のことだ。これは機能という考え方とは異なる。椅子の機能は座ることだ。でも、場合によっては高いところに手を伸ばすために、椅子の上に立っても良い。回りに手頃なものが椅子しかなかったら、きっとそうするだろう。だから椅子は座ること以外にも様々な行為をアフォードする。機能より柔軟なこの考え方は、人間の実情により知覚感じられるが、デザインに応用するとなると難しい。新たなアフォーダンスを私たちは生み出すことができるのだろうか。

七章「知覚像と作用像」において、アフォーダンスと類似するような考え方が提出される。物事は行為に関連付けて認識されるという指摘だ。

「われわれは自分の環世界の対象物でおこなうあらゆる行為について作用像を築きあげており、それを感覚器官から生じる知覚像と不可避的にしっかり結びつけるので、その対象物はその意味をわれわれに知らせる新たな特性を獲得する。」(p.92)

 

篠原一男設計の上原通りの住宅で、 特徴的な柱と床から45°に突き出る方杖にポスターの貼られた写真を見たことがある。施主の話によれば子供たちが、柱と方杖の間に寝そべったりしていたという。

「知覚像と作用像」の考え方を借りれば、最初は邪魔に思えた柱と方杖がポスターを貼ることができる、間に寝そべることができるという可能性によって新しい意味を獲得したと考えることができる。

2Gの篠原一男特集号の写真を見ると、生きられた篠原の住宅、篠原の強い表現と生活のダイナミックな関係に感動する。建築の表現と生き生きとした生活は必ずしも矛盾しない。「知覚像と作用像」にそれを成立させるヒントがある気がしている。

 

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)